創業者の想い
ロンメル将軍の戦術を取り入れて解決した話
2009-10-26
written at 2009年10月29日|仕事の思い出
昭和41年頃のことです。
大阪は万国博に向けてあらゆる工事が進められました。その一つに、大阪空港では滑走路の延長工事がなされ、その先端に防音壁の工事があり、鉄製の支柱を建柱し終えた時、空港の管制室より、鉄製支柱はレーダーに反応しやすく、誤作動を起こす危険性が高いので、外してほしいとのこと・・工事関係者は悩んだ。私がロンメル将軍の戦術を話しました。それは第二次世界大戦の北アフリカ戦線の出来事、ドイツ戦車軍団は初戦は優勢であったが、米軍が兵器レーダーを投入したところ、戦車の損害が増加することになった。ロンメルは戦車の表面をセメントで塗り固めるよう命令した。すると戦車被害も減り優勢を取り戻した。工事関係者の賛同を得て、支柱にモルタルを塗りつけ無事防音壁は完成いたしました。平成21年の今も健全に役目を果たしています。
追記:当時としてはステレス型戦闘機ならぬ、ステレス戦車ということでしょうか?
(レーダーに反応しない戦車)
大阪は万国博に向けてあらゆる工事が進められました。その一つに、大阪空港では滑走路の延長工事がなされ、その先端に防音壁の工事があり、鉄製の支柱を建柱し終えた時、空港の管制室より、鉄製支柱はレーダーに反応しやすく、誤作動を起こす危険性が高いので、外してほしいとのこと・・工事関係者は悩んだ。私がロンメル将軍の戦術を話しました。それは第二次世界大戦の北アフリカ戦線の出来事、ドイツ戦車軍団は初戦は優勢であったが、米軍が兵器レーダーを投入したところ、戦車の損害が増加することになった。ロンメルは戦車の表面をセメントで塗り固めるよう命令した。すると戦車被害も減り優勢を取り戻した。工事関係者の賛同を得て、支柱にモルタルを塗りつけ無事防音壁は完成いたしました。平成21年の今も健全に役目を果たしています。
追記:当時としてはステレス型戦闘機ならぬ、ステレス戦車ということでしょうか?
(レーダーに反応しない戦車)
略歴
1891年 ドイツ・シュツットガルトの東方ハイデンハイムで生まれる。
1910年 士官候補生として、歩兵連隊に入隊
1911年 ダンツィヒ士官学校に入学
1912年 ダンツィヒ士官学校を卒業 歩兵少尉になる
1914年 第一次大戦に参加
フランス、イタリア戦線で功績を挙げ、
プール=ル=メリット勲章を授与される。
1929年 ドレスデン歩兵学校の教官に補せられる。
その時期に執筆した戦術書『歩兵の攻撃』が
40万部を超えるベストセラーになる。
※その『歩兵の攻撃』がヒトラーの目にとまり彼の護衛隊司
令官に命令される。
その後、ヒトラーのバックアップを受け、出世していく事となる。
1939年 陸軍少佐に昇進 第二次世界大戦が勃発
1940年 第7装甲師団長に任命
※ ポーランド侵攻で戦車の威力を目の当たりにし、自ら装甲師団の
指揮をヒトラーに請願した事による。
5月より開始された“西方作戦”で、ロンメルは常に陣頭指揮を
執り、ドイツ軍を勝利に導く決定的な役割を果たす。
1941年 2月に北アフリカ戦線に進撃依頼“砂漠の狐”と異名を取り
“戦略家”としての名声を決定付ける
1943年 病気によりドイツ本国へ帰国
1944年 6月の連合軍ノルマンディ上陸の際、司令官として指揮を
執っていた最中に重症を負い治療のため戦線を去る。
7月にヒトラー暗殺事件が起こり、ロンメルが戦争終結を
画策していた事が発覚。
自決を強要されたロンメルは服毒自殺により生涯を閉じた。
球場のフェンスの話です。
1891年 ドイツ・シュツットガルトの東方ハイデンハイムで生まれる。
1910年 士官候補生として、歩兵連隊に入隊
1911年 ダンツィヒ士官学校に入学
1912年 ダンツィヒ士官学校を卒業 歩兵少尉になる
1914年 第一次大戦に参加
フランス、イタリア戦線で功績を挙げ、
プール=ル=メリット勲章を授与される。
1929年 ドレスデン歩兵学校の教官に補せられる。
その時期に執筆した戦術書『歩兵の攻撃』が
40万部を超えるベストセラーになる。
※その『歩兵の攻撃』がヒトラーの目にとまり彼の護衛隊司
令官に命令される。
その後、ヒトラーのバックアップを受け、出世していく事となる。
1939年 陸軍少佐に昇進 第二次世界大戦が勃発
1940年 第7装甲師団長に任命
※ ポーランド侵攻で戦車の威力を目の当たりにし、自ら装甲師団の
指揮をヒトラーに請願した事による。
5月より開始された“西方作戦”で、ロンメルは常に陣頭指揮を
執り、ドイツ軍を勝利に導く決定的な役割を果たす。
1941年 2月に北アフリカ戦線に進撃依頼“砂漠の狐”と異名を取り
“戦略家”としての名声を決定付ける
1943年 病気によりドイツ本国へ帰国
1944年 6月の連合軍ノルマンディ上陸の際、司令官として指揮を
執っていた最中に重症を負い治療のため戦線を去る。
7月にヒトラー暗殺事件が起こり、ロンメルが戦争終結を
画策していた事が発覚。
自決を強要されたロンメルは服毒自殺により生涯を閉じた。
球場のフェンスの話です。