創業者の想い
ご存知ですか?桜ノ宮“桜の通り抜け”の言葉の語源
2015-12-11
造幣局で実際に働いていた人から聞いた話です。
昭和19年、軍部はサイパン島が米国に占領された時点で、造幣局の工場の機械をすべて大阪府四條畷市に
疎開させる計画を立てていたそうです。
その理由は、造幣局で銃弾の薬莢を製造していたからです。
(※その証に、真ん中に穴の空いた5円と50円硬貨が現在でも使われています)
実際、大阪城の東面一帯は日本軍部の大砲を作る工場があり、しかも東洋一と言われていました。
その当時造幣局にいた人たちは防空壕の中で、B-29(大型爆撃機)が鶴橋の方面から大編隊で飛来し、
1t爆弾をすべて大砲工場に落とすのではないかと、怯えていたそうです。
しかし、造幣局上空を通過した時点ではB-29に一発の爆弾も残っておらず、全機上空を通り抜けて
いっただけだったそうです。
戦争のない平和な日本はいいものです。
現在では爆撃機が通り抜けることなく、きれいな桜の間を人々が通り抜けて楽しむことができるのですか
ら。
造幣局記念硬貨(表)↓↓
造幣局記念硬貨(裏)↓↓
水の溜まらない構造で蚊を発生させないタフパネルdry
2015-08-05
最近日本では、69年ぶりにデング熱が流行しました。
その要因は小さな水溜まりです。その水溜まりを作らない構造にすれば、予防へ一歩前進です。
雨水が全く溜まらないタフパネルdryの排水機能は、蚊の発生原因の元を断ちます!
※ちなみに池の水では、蚊の幼虫(ボウフラ)は天敵である魚に食べられてしまうようです。
マッカーサーとスターリン
2015-03-09
私が12歳の時のことです。父と友人の木下の小父さんとの話です。
ある時、マッカーサー司令部にソ連のスターリンの遣いの者が来て、マッカーサー司令官に、“日本の北海道をソ連の管轄下にしたい”と言ってきたそうです。
マッカーサー司令官は、「アメリカは1941年12月7日、ハワイの真珠湾より戦闘が始まり、1945年8月14日に戦争が終わったが、多くの犠牲者を出した。ソ連は1945年の8月6日から8月15日までの10日余りの戦争ですね。北海道はソ連に渡すことはできないと思う。それはトルーマン大統領が決定することです。」と言って、遣いの者を帰したそうです。
その後スターリンは、カラフトの半分と北方四島を取り、朝鮮の北半分とドイツの半分、一時は満州を管轄下に置きました。
日本人はマッカーサー氏に対して感謝ですね。
ただし、スターリンはそう容易に諦める人物ではないと思いました……
それから30年余り年月が過ぎた時、ある人物と話に花が咲きました。それは北海道の防衛論でした。
話の中身は、
「今青函トンネル(建設開始 昭和36年 開通 昭和63年)を掘っているよなぁ。ソ連のスターリン戦車と対等に戦うことができる日本の戦車“74戦車”を新幹線で札幌まで運ぶ必要があるからね。
そのトンネル工事の主役が、TBM(世界最大級のトンネル掘削マシン)だよね。
(※TBMは最近では、日本道路公団で、飛騨トンネル工事で大活躍しています。また、イギリスとフランスの間にあるドーバー海峡の海底トンネルもそうです。)
しかし、青函トンネルは約53㎞(海底部約24㎞)ある。貨物船で運べば良いと思うのだが……ところが、それでは時間が掛かりすぎる。仮想敵国は、ウラジオストックから千歳までフェリーで約8時間くらいかかる。その上陸地点に日本軍は、74戦車を3時間前に布陣を張る必要がある。それで普段は富士山の麓の御殿場に待機していて、いざという時にすぐ東名高速で新幹線の新富士駅に行き、そこから直接戦車専用台車で札幌へと向かうということになる。良くできているなぁ。」という話でした。
スターリン戦車
74戦車
西宮球場の昔話
2015-02-20
以前にブログで書いた「球場のフェンスの話」の内容を転載します。
時代は昭和34年の11月のことです。
デイリースポーツ紙を読んでいたら、面白い記事に出会いました。それは「ストーブリーグ」と呼ばれる欄でした。
「阪急ブレーブスはなぜ最下位か?」と、当時の監督 戸倉氏は叫びました。「西宮球場が余りにも広すぎるからだ。もし南海ホークスの難波球場だったら…… バルボン選手が大レフトフライを満塁で打ったことや、4番の中田選手が満塁でホームラン性の大フライを放った時も……」と、そのような事例が山ほどあります。アレヤ、コレヤと思うと、阪急ブレーブスは毎年優勝します。
もしも出来るものなら、親会社の阪急電鉄さんが、野球開催時は難波球場のように狭くなり、競輪の開催時は今のような広さにに早変わりする施設を作ってくれないものかなぁ、と語りました。
私(古賀)はアイデアを提案しました。甲子園球場のラッキーゾーンは固定式ですが、西宮球場向けは簡易で脱着式で、頑丈なラッキーゾーンを提案しました。
すると阪急電鉄より、施工指示が届きました。
その後、阪急ブレーブス球団が優勝を重ねていった思い出があります。
平成22年8月 六甲山ホテルに宿泊して、阪急電鉄の創業者小林一三記念館を訪れました。小林一三翁が愛用された事務机と椅子が整然と展示されていました。
私はその事務机に腰掛け、しばし物思いに耽っていました・・・すると、“兄ちゃんよく来てくれたね”と小林一三翁が現れて、話しかけられました・・・
『野球では阪神タイガースの調子が良いが、我が阪急ブレーブスは負けが多い。そこで根屋企画室長、毛利課長、並木係長にブレーブスが強くなるよう、研究を指示した。
ある日、根屋室長が、「若人男がラッキーゾーンという設計図を持って現れた。(昭和34年、私は24歳の若造でした)」と言ったので「この兄ちゃんの考えは面白い!採用したら…」と指示した。
すると阪急ブレーブスが俄然強くなった。ある日「若い兄ちゃんにお礼をしたら…」と言った。「カネを渡すのはアカン。」「兄ちゃんは何の仕事をしてるの…」「ハイ、フェンスという金網を張っています」
では今、阪急が分譲住宅を作っているな。その住宅、仁川、売布、春日野、甲東園団地等に採用してはどうか…それと日本道路公団が西宮~東京までフェンスを設置する話を聞いたよ。並木係長に調べてもらって、兄ちゃんに紹介してみないか…』
私は「あーそれで石倉商店(金物商)が名神高速の瀬田~栗東間の立ち入り防止柵の大型工事が受注できたのか」と物思いに耽っていましたら、妻に「いつまで座っているのよ、土産を買いに行くわよ」と肩を叩かれるまで、思い出に浸っていました。
※平成27年2月・・・小林一三翁が阪急王国を作り、そして野球阪急ブレーブスの連続優勝に活躍したフェンス(ラッキーフェンス)の設置直後の写真が見つかりましたので、掲載します。
タキロンの足立 悟氏の思い出
2014-07-22
written at 2014年07月22日|仕事の思い出
大阪万博(昭和45年~)が開催される約2年余り前のことです。阪神高速の守口線が開通する直前でした。その時、阪神高速から“透光板で防音壁を作って欲しい”と依頼があり、足立氏に相談すると、「最近タキロンが開発したポリカーボネート板が最高ダヨ!」と話してくれました。そこで早速、鉄のフレームにポリカーボネートを固定して、透光板が出来上がりました。(t2.5m/m) その記念に宝塚のスポーツカントリーでコンペを行いました。私は第2組で、足立氏は第1組でINでのスタートでした。足立氏は右ドックコース380ヤード(パー4)をドライバーで360ヤード余り飛ばし、周囲の人たちが驚いて確実に
バーディー、もしくはイーグルと思いましたが、どうもW.B.のようでした…約45年前の出来事でした。 現在、防音壁の歴史は、透光板ポリカーボネート→金属板の吸音式遮音壁
→アクリル透光板→ガラス透光板と移行しております。
※全国の防音壁の比率は、金属板が70%、透光板が30%です。今の私の悩みは、オゾン層対策です。足立 悟さんのような聡明な方が現れないかなぁ、と探しております。どなたか教えてくださいませ。
バーディー、もしくはイーグルと思いましたが、どうもW.B.のようでした…約45年前の出来事でした。 現在、防音壁の歴史は、透光板ポリカーボネート→金属板の吸音式遮音壁
→アクリル透光板→ガラス透光板と移行しております。
※全国の防音壁の比率は、金属板が70%、透光板が30%です。今の私の悩みは、オゾン層対策です。足立 悟さんのような聡明な方が現れないかなぁ、と探しております。どなたか教えてくださいませ。