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創業者の想い

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統一吸音板開発の思い出

2009-11-20
written at 2009年11月20日|仕事の思い出
昭和50年頃の話です。
日本道路公団本社より、『吸音板を統一標準化するので、吸音板メーカー集合されたし』とのことでした。公団本社に集まると、公団の渡辺元人課長代理・田村技師のお二人が下記の説明をされた。
1)音響性能  2)外観  3)耐久性  4)製作の難易度(ロールにより大量生産)
等から、検討を始めると告げられた。
私の提案で認められたのは下記のものだけでした。
1)吸音材はグラスウール
2)鉄板は亜鉛鉄板(Z-27)
3)前面板はアルミ合金(1mm)
4)背面に凹加工を施す(強度・空気層を確保する)
5)溶接をしない加工
固定バネのステンレス材で提案しましたが、高価すぎると鉄のメッキになりました。外観は各社の特徴を組み合わせると見事なデザインの設計図が出来ました。私は早速試作サンプルを提出したところ、不合格・・・。再度提出して、やっと合格した覚えがあります。
この吸音パネルは入射した音のエネルギーを熱エネルギーに変換することにより、吸音・遮音性能を得るものです。
また、吸音パネルはコンクリート式に比べ反射音が少なく、軽量であるため、橋や高架橋に適しています。
今日では、高さも3m、5m、8mと高くなり、背面を着色化した地域の景観にマッチした、遮音壁に仕上がります。
仮設的なものから、本格的な構造物としてのの位置付けになっています。
今年で35年経過した吸音板を調べてみますと、一部改良の必要があるようです。
アルミ合金と亜鉛鉄板の組み合わせによる(電位差による腐食)錆を心配される人がいた。(日本碍子の加藤氏)
今にして、思えば的中でした。(写真参照)
 
 20091120131642693_0001.jpg
 
説明しますと、アルミ合金と亜鉛鉄板の亜鉛との電位差はわずかですが、年月が経つと亜鉛が消滅し、鉄が 貴 になり、アルミ合金が 卑 であるから写真が示すようになります。
最近は高耐候性メッキ鋼板と呼ぶ素晴らしい鋼板を鋼板メーカー数社が生産していますが、このメッキ鋼板が、昭和50年当時に開発されていたらなぁ・・・と思う次第です。

吸音板開発の流れ

2009-11-13
written at 2009年11月13日|仕事の思い出
 昭和45年の夏のことです。 
 阪神高速の守口線が昭和46年10月開通を目指して工事が急ピッチで進んでいたころ、阪神高速より相談を受けた。その内容とは車の騒音を弱め、太陽光線を阻害しない遮音壁を設置したいとの申し出だった。そこで、樹脂板(ポリカーボネート)の遮音性の透光板を提案し設置した。 今思えば、初の透光遮音板だったのではと思います。
 開通から約1年余り経った頃、阪神高速より、設置した遮音壁は乗用車が走るときはよいが、大型車が走ると騒がしい音がすると苦情が持ち込まれた。私は『重複反射音が出たな、ならば吸音性をもった製品を・・』と思いついた。早速、試作品を作って、国鉄大鉄局に持って行ったところ、担当者がその吸音板をチョットお貸し願いたいと申し出られた。その日の夕方、NHKの広報記者が私の帰りを待ち構え・・吸音板について質問を投げかけてきた。翌朝、七時のテレビニュースで「山陽新幹線開業に伴い、神戸六甲トンネル東坑口付近での騒音は80ホーン以下に抑えられるはずが、実際には100ホーン以上に達している。それを大阪の金属メーカーと共同開発した吸音式遮音板で対処することにした」と告げた。これが我が国で鉄道、道路などに採用された本格的な遮音板の始まりです。 
昭和47年のことです。

ロンメル将軍の戦術を取り入れて解決した話

2009-10-26
written at 2009年10月29日|仕事の思い出
昭和41年頃のことです。
大阪は万国博に向けてあらゆる工事が進められました。その一つに、大阪空港では滑走路の延長工事がなされ、その先端に防音壁の工事があり、鉄製の支柱を建柱し終えた時、空港の管制室より、鉄製支柱はレーダーに反応しやすく、誤作動を起こす危険性が高いので、外してほしいとのこと・・工事関係者は悩んだ。私がロンメル将軍の戦術を話しました。それは第二次世界大戦の北アフリカ戦線の出来事、ドイツ戦車軍団は初戦は優勢であったが、米軍が兵器レーダーを投入したところ、戦車の損害が増加することになった。ロンメルは戦車の表面をセメントで塗り固めるよう命令した。すると戦車被害も減り優勢を取り戻した。工事関係者の賛同を得て、支柱にモルタルを塗りつけ無事防音壁は完成いたしました。平成21年の今も健全に役目を果たしています。
追記:当時としてはステレス型戦闘機ならぬ、ステレス戦車ということでしょうか?
(レーダーに反応しない戦車)
 
 261.jpg
 
略歴
1891年   ドイツ・シュツットガルトの東方ハイデンハイムで生まれる。
1910年   士官候補生として、歩兵連隊に入隊
1911年   ダンツィヒ士官学校に入学
1912年   ダンツィヒ士官学校を卒業 歩兵少尉になる
1914年   第一次大戦に参加    
フランス、イタリア戦線で功績を挙げ、     
プール=ル=メリット勲章を授与される。
1929年     ドレスデン歩兵学校の教官に補せられる。 
その時期に執筆した戦術書『歩兵の攻撃』が    
40万部を超えるベストセラーになる。    
※その『歩兵の攻撃』がヒトラーの目にとまり彼の護衛隊司    
令官に命令される。    
その後、ヒトラーのバックアップを受け、出世していく事となる。
1939年     陸軍少佐に昇進 第二次世界大戦が勃発
1940年     第7装甲師団長に任命
※ ポーランド侵攻で戦車の威力を目の当たりにし、自ら装甲師団の     
指揮をヒトラーに請願した事による。     
5月より開始された“西方作戦”で、ロンメルは常に陣頭指揮を    
執り、ドイツ軍を勝利に導く決定的な役割を果たす。
1941年     2月に北アフリカ戦線に進撃依頼“砂漠の狐”と異名を取り    
    “戦略家”としての名声を決定付ける
1943年   病気によりドイツ本国へ帰国
1944年   6月の連合軍ノルマンディ上陸の際、司令官として指揮を      
執っていた最中に重症を負い治療のため戦線を去る。
      7月にヒトラー暗殺事件が起こり、ロンメルが戦争終結を  
           画策していた事が発覚。  
           自決を強要されたロンメルは服毒自殺により生涯を閉じた。 
                  球場のフェンスの話です。

球場のフェンスの話です。

2009-10-16
written at 2009年10月16日|仕事の思い出
時代は昭和34年の11月のことである。
デイリースポーツ紙を読んでいたら、面白い記事に出会った。それは「ストーブリーグ」と呼ぶ欄であった。“阪急ブ レーブスはなぜ最下位か?”と、当時の監督戸倉氏は叫だ。“西宮球場が余りにも広すぎるからだ。もし南海ホークスの難波球場だったら、選手バルボンが大レフ トフライを満塁で打った。また4番 中田が満塁で、ホームラン性の大フライを放った・・・その様な事例が沢山、山ほどある。
アレヤ、コレヤを思うと、阪急ブ レーブスは毎年優勝だ。もし阪急電鉄が野球の時は難波球場のように狭くなり、競輪の開催時は、今の競輪場に早替わり出来る施設にして頂きたいものだと語っ た。私(古賀)はアイデアを提案した。甲子園球場のラッキーゾーンは固定式だ。西宮 球場向けは簡易で脱着式が出来て、頑丈なラッキーゾーンを提案しました。すると阪急電鉄より施工指示が届いた。その後、阪急ブレーブス球団が優勝を重ね強くなっていった思い出があります。

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